データと学問

id:ajiemonさんによる「ドラえもん学」評。
http://d.hatena.ne.jp/ajiemon/20050521/p1#c
ドラえもん学の作者は「ドラえもん学コロキアム」の管理人で、富山大学教授の横山泰行氏である。横山氏はドラえもんをコマ単位、セリフ単位で分析し、データベース化を行っている人である。紹介されている「ドラえもん学」、僕は本屋で見つけてぱらぱら読んだのだけど、購入を見送ったものだ。で、僕が以前から横山氏の「ドラえもん学」研究について漠然と思っていたことを、ajiemonさんが非常に的確に指摘しておられたので、実にナルホド! と思った。

(中略)いや、そんなはずはない。ドラえもん「学」というからには、そして、その研究手法がデータ収集によるのであれば、データ収集によって何らかの新しい発見があり、それは特定の原因によって生み出された結果であることを説得的に証明して見せる必要があるのではないか。「○○というデータがある。だから、□□と言えるのである」というデータと結論の関係性が必要なのである。

もし筆者が「ドラえもん学」を提唱したいのなら、何らかの学問的な視点がなければならないと私は考えている。しかし、筆者の研究はデータ集めと結論がなんらリンクしていない。データでは、どのキャラクターやひみつ道具が何回登場しているとか、ひたすら「回数」にこだわっているように思える。しかし結論はいつも普通の感想文に終始し、データとの関連も全くない。ようするに、データなどはじめから必要なかったのである。独自の視点や新しい発見が全くなく単なる「記述」に過ぎない本書は、そして筆者の研究は、現時点では全く学問的ではないと言わざるを得ないだろう。

これなんですよね。長い時間をかけて集めたであろう「データ」。そのデータがうまく生かされていない。上記「ドラえもん学コロキアム」を見ても、客観的な数字は確かに多く記載されているのだが、そこにいわゆる「学説」と呼ばれるような「学問的見解」が見当たらない。サイトがまだまだ今後も更新されることを考えれば、それは将来のものになるのかもしれないけれど、現時点での仮説とか予測とか、そういったものくらいは出してもいいのではないかと思う。
せっかく「数字」という事実として非常に強いツールを持っているのに、もったいない。現代風俗や落語との親和性なんかも研究できそうだし、学生にドラえもんを読ませて色々なアンケートを取れば、心理学的なテーマでも色々考えることができるだろう。
確かに、マンガの作品自体を学問まで昇華させることはなかなか難しいとは思う。しかし一旦「学」という旗を揚げたのであれば、それなりのものは見せて欲しい。僕は期待しているのである。そうやって学問的見地からドラえもんを論じないのであれば、もはや「ドラえもん学の研究者」などではなく「ドラえもん愛好家」であろう(や、むしろコアな愛好家の方が、すごい視点でドラえもんを論じることができるだろうなあ)。
作者が亡くなって、純粋に藤子・F・不二雄により描かれた「ドラえもん」はもう増えることはない(未発表原稿なんかが見つからない限り)。実質的に終了したものを、どう学問まで昇華させるか。夏目漱石で言うと「我輩は猫である学」みたいなもんだ。チャレンジ精神は大いに買いたいんだよなあ。アマゾンでは厳しい評価を受けているけれど、今後の研究・著作に期待したい。
最後に、ajiemonさんが紹介されていたドラ関連書籍に加えて、僕も1冊紹介したい。
藤子不二雄論―FとAの方程式 米沢嘉博

藤子不二雄論―FとAの方程式

藤子不二雄論―FとAの方程式

米沢氏の力作である。F先生のみならず、A先生との関係、環境などの見地からも含んだ論評である。二人で一人の藤子不二雄の歴史も非常に面白かった。そういう本なので厳密には「ドラえもん」に限定されてはいないのだけど、これを読むとドラえもんだけでなく、他の作品も読んでみたくなること、うけ合いである。F先生に特化した評論本である浜田祐介氏の「藤子・F・不二雄論」も面白いんだけど、終盤の後期大長編についての見解には違和感があるところ。